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古茶大樹先生 ~精神科診断における疾患と類型について~

21.02.01

―身体疾患は事例を区分けする容器になるが、理念に基づく類型は臨床的介入を選択するためのものさしであるー

 

本日の講演は、聖マリアンナ医大の古茶大樹先生にお願い致しました。精神科臨床においては、異なった水準の「診断」が並置され、それが様々の混乱のもとになっています。私達の日々の臨床と切っても切り離せないいわゆる心因、内因、外因は、この異なった水準を区分しているのですが、非常に系統的に、かつ厳密な用語を用いて、精神科診断の大きな枠組みを示していただきました。最後に表に示した精神科診断の層構造が参照軸として頭にないと、それに反対するにせよ、議論は混乱してしまいます。

 

ご講演はまずは、「あらゆる精神障害は疾患的であるか」という問いから始まりましたが、この問いは、今回の講演を流れる基調となっています。改めて古茶先生の講演を聞かせていただくと、様々の、特にドイツ精神医学の論争なども有機的に結びつく上に、それをそのまま受け入れるにしても、あるいはそれに対して自分の異なった立ち位置を主張するとしても、私たちの臨床の基準線がそこにはあるという印象をますます強くしました。私個人にとっては、前回、内海先生が紹介していただいた、ウィルヘルム・ディルタイ “Wilhelm Dilthey” の、自然へのアプローチは説明 “erklären” によって、精神へのアプローチは了解 “verstehen” によって、という20世紀のドイツ現象学を貫く考えを深く自分の臨床の中に受肉させるということがどういうことなのかを改めて考える機会になりました。

 

「あらゆる精神障害は疾患的であるか」。この問いに対する3つの答えを、古茶先生はまずは、講演の中で示されました。

A:疾患的なものとそうでないものがある(臨床的)

B:すべては疾患的である(脳科学的)

C:その問いには答えずに当面回避するのがよい(ICD,DSM)

 

ドイツにはグリージンガー “Griesinger” という有名な精神科医がKraepelinの前にいて、「精神疾患は脳病である」という言葉で知られています。古茶先生の講演がおいおい進んでいく中で、この「疾患的」という言葉の重みはよりはっきりしてきますが、Bの答えがどうして脳科学的になるのかが分かるには、この疾患的という言葉の意味を理解することが必要です。Cは、精神医学は精神障害を身体医学と同等の確度で疾患として捉えるだけのデータを持ち合わせていないので、この問いはとりあえず棚上げにして、みんながとりあえず同意できる申し合わせを作ろうというような意味になります。先ほどのディルタイの用語法を用いるならば、Aは精神医学には因果的に説明すべき疾患と、感情移入や共感によって了解すべき病態があるという考えであるのに対して、Bはすべては因果的・自然科学的に説明すべき疾患なのだという考えというふうにも表現できるかもしれません。

 

古茶先生は、「疾患」を、身体医学の概念であり、存在概念だと定義し、これを理念的な在り方と峻別されました。ここでいう存在概念とは、身体的な水準で知覚的に把握可能なという性質を持ち、形而下の存在であって、時間的・空間的な形式をとるものであり、精神医学における具体例としては、アルツハイマー病やレヴィー小体病、FTLDなどの認知症関連疾患を挙げられましたが、NMDAとか抗LG1抗体脳炎などももちろん挙げることができるでしょう。これに対して、統合失調症や気分障害は、身体疾患がだと断定できる決定打に欠けるという話しがまず提示されました。

 

「統合失調症は病気か」と尋ねられると、みんな異口同音に「そうだ」と答えるが、その理由を尋ねると答えは千差万別だと古茶先生は続けられました。ここでいう病気というのは、上の存在概念としての疾患という文脈です。たとえば以下のような答えが挙げられてきたと古茶先生は続けられました。

  • 側坐核と中脳を結ぶドーパミン経路の過剰機能症
  • 特異な認知機能障害症
  • ある種の遺伝疾患

しかしどの答えも統合失調症現象のすべてを覆うことはできません。結局、新規に出現する了解不能性だけが、共通の特性として残るのではないか。こう論を進められて、でも、この了解というのは、誤解を生みやすい表現なので、これを生活発展の意味連続性の中断というシュナイダー “Schneider” の表現に置き換えてより明確化することを提唱されました。精神科における診断の流れはまずは、疾患かどうか(存在概念で当てはまるかどうか)への、YES・NOがあり、これがNOであった場合には、了解できるかどうか次の問いになるという構図がここで示されます。そうなると了解、あるいは生活発展の意味連続性は、精神科臨床の基盤になることになります。

 

古茶先生の講演はその後、「了解は難しくない」という話しに移ります。まずは因果的関連の例として、アルツハイマー病での物忘れは海馬の萎縮に由来するという関連が挙げられます。それに対して、了解的関連の例として、叩かれたら腹が立つ、好きな人が他の異性と仲良くしていたらやきもちを焼くという関連が挙げられました。さらにケース・ビネットとして以下の例が了解的関連の例として提示されました。

 

23歳女性。某有名銀行に晴れて入行が決まり、意気揚々と初出勤。しかし彼女の教育係になった先輩は、極めて有能でかつ頭が切れるが、自他ともに大変厳しく、新人の彼女はいくら一生懸命やってもその仕事は全く褒められることなく叱責ばかり。自分のことを考えて怒ってくれているのだと奮起してがんばり続けますが、5月の連休前には会社に行くのがつらく、食欲も落ちて、時々急に涙が出てしまうような状態になっていました。連休になって気分転換ができ、連休の前半は元気が戻ったものの、出勤開始が近づくにつれて元気がなくなり、連休明けの初出勤の朝、お腹が痛くなって銀行に行けなくなり電話をしたところ、たまたま教育係の先輩が電話口に出て、休むんだったら診断書を持ってきなさいと言われ、総合病院の消化器科を受診したところ、調べても何も病気は見つからないので精神科に回されて、古茶先生のところへやってこられた。

 

先輩につらく当たられ、しかもその先輩はあくまで正しいし、仕事には行きたい気持ちはあるのだけれどもう限界、新人の彼女がこの状況でお腹は痛くなるのは分かるよねと、精神医学を勉強していようといまいとこの「分かる」、これが了解的関連であって、これが分からなければ小説も映画も分からくなってしまうと古茶先生は続けられました。しかし、ここで古茶先生は注釈をつけられました。了解 “Ver-stehen”は、納得ではなく、感情移入なのだという注釈がそれです。ドイツ語のVerstehnのverは位置を変えることを示す接頭辞であるという語源的な解釈を提示された上で、「自分であればそうは考えないだろうけど、彼女の身になればそう考えても不思議ではないよね」というのがヤスパースの了解だと続けられたわけです。シュナイダーは了解を、共感や納得と混同してしまう誤解を避けるために、了解の代わりに生活発展の意味連続性という言葉を使ったのだと古茶先生は指摘されます。(前回の内海先生のご講演でのVerstehenの英語訳の共感empathyは、そういう意味では納得の方向へとより誤解を深める方向へと舵を切っているといえなくもありません。この興味深い論点は、また皆さんと医局でしましょう)。生活発展の意味関連とは、たとえば例に挙がった新人の銀行員では、ひたむきで頑張り屋な女性が、自分の頑張りでは乗り越えられない場面に遭遇し、そこからの出口が見つからない状況が続いた時に、お腹が痛くなって会社に行けなくなったのは、彼女のそれまでの生活史の文脈からは「分かる」という意味で、生活発展の意味関連は途切れてはいないということになると思います。こうしたそれまでの生活史の連続性のあるまとまりとは全く別の新たな精神生活が突然入り込むこと、これが了解不能なのだというのがシュナイダーの考えであり、古茶先生の考えなのだと私は理解しています。

 

身体疾患とはどのようにして確立されていくのでしょうか。大規模な新たな例として、1981年頃にLos Angelesのゲイ・ソサイアティで明らかになったHIVを身体疾患が確立される際のプロトタイプとして古茶先生は提示されました。

 

HIVを例にとると身体疾患は、以下のようにして確立されるのが定石です。

  • いくつかの症例発表
  • 症候群の提示
  • 原因の追究
  • 原因の発見(パスツール研究所)
  • 疾患の境界が確定
  • 各症状の出現率の確認(いくつかの既存の症状の脱落と新たな症状の追加)
  • 診断基準の作成(=疾患単位)

 

こうした手順が、統合失調症やうつ病においては成り立たない。精神障害には、冒頭から繰り返し話題になっているように、疾患と類型が混在しています。症候群というのは、一定の身体疾患を指し示すサインであって、因果律に基づいた疾患単位へと結びついていくことが期待されます。これに対して、いかなる精神症状も病因とは厳密な意味では非対応であることを精神医学の200年の歴史が証立ててきたと古茶先生は続けられました。。古茶先生は、このことを、形而上から形而下に移る際の問題として提示されました。根本的には脳と心の非対応、心が自然科学の対象にはなれないことにその原因があるのではないか、極論すれば、心は自然科学の対象になるのかという問いとこの問いは連なることになります。つまりここでは第三版以降のDSMの見果てぬ夢、操作的診断を煮詰めることで、内因性精神疾患を身体疾患として確立しうるジャンプ台にできるに違いないという夢が疑問に付されているということもできるかもしれません。

 

逆のゴリゴリの生物学的・自然科学的視点からも、2013年自然科学的医学会の総本山の一つNIHの総帥であったインゼル “Insel T” から、衝撃の脱DSM宣言が出されます。インゼルは、DSMはゴールド・スタンダードではなくて、診断とレッテルを組み合わせただけの辞書のような類のものだと根本的な批判を加え、その代わりに研究用のResearch Domain Criteriaを提唱します。インゼルの狙いは、生物学的な均一性が担保されるような診断名の提唱であったわけですが、DSMへの批判そのものは的を得ているとしても、200年の精神医学の診断の歴史を何の役にも立たないものとして一刀両断した筆致は公平性に欠けるのではないかというのが古茶先生のお話しでした。少なくとも伝統的な精神医学的診断は、生物学的な疾患概念とは異なるものの、臨床的な有用性は十分にあるのであって、対照的にインゼルのResearch Domain Criteriaは、臨床的には使えないものだからです。

 

インゼルの酷評に反して、200年前と比べて精神疾患の治療が進歩していることは間違いが、これまで提唱されてきた類型概念(統合失調症とかうつ病など)が、疾患単位と混同されてきたことには問題がある。そこで、理念型 “Idealtypus” (Max Weber) という考えの導入が事態の整理に有用であると古茶先生は話されました。

 

理念型とは、実在するモデル症例から、提唱者が本質的であると見抜いた特徴だけを抽出して再構築された概念で、モデル症例から本質でない部分をすべて捨象したものです。たとえばブランケンブルクのアンネ・ラウ、クラウス。コンラットのトレマの叙述、あるいはビンスワンガーのエレン・ウェストなどは実在の事例ですが、その中から当該の病態に本質的な側面が強調されて抜き書きされ、事例報告として提示されたものです。

 

理念型とは、患者を理解するための不可欠な道具であって、症例に構造を与えるための物差しであり、個々の目の前の事例においてどのものさしが一番近いかを同定し、それに基づいて治療計画を立てるものであると古茶先生は提示されました。たとえばテレンバッハのメランコリー親和型といった理念はそれであって、提唱者の視点が理念型には必然的に反映されることになります。最近の例では、境界性人格障害と考えて、枠組みつくりや転移の関係で七転八倒していた若い女性患者を、双極Ⅱ型障害と考えて治療の枠組みを変えるといった例などが具体的に提示されました。有用な理念型とは、あまりに一般的なイメージを包摂するものではなくて、適度な狭さが必要であり、たとえば非定型精神病のように、いきいきとそのイメージが浮かび、そのイメージを浮かべることによって治療方針がそれに結び付くものである必要があることも強調されました。古茶先生が強調されたのは以下の図式です。

 

疾患単位 容器 実在

類型   定規 理念

 

そして、類型を疾患単位と見せかける、あるいは誤解してしまうことが精神医学における様々の混乱を生んでいるのだと力説されました。

 

古茶先生自身も従来は、疾病概念を基盤にしたクレペリンの気分障害と統合失調症への伝統的2分法に囚われていた時期があり、先生自身がその概念をまとめられた遅発緊張病について、統合失調症圏の病態なのか、気分障害圏の病態なのかを質問されて迷った時期があったが、シュナイダー・ヤスパースの類型論へと立ち返ることで、遅発緊張病が疾患単位ではなく、理念型だと考えるならば、必ずしも二分法的な決着をつける必要があるわけではないという考えに至ったことも紹介されました。

 

図は、精神科における診断の意味についての古茶先生の考えのまとめになります。具体的には、第四層は、先ほど挙げたようにアルツハイマー病とかNMDA脳炎など、第三層は統合失調症など、第二層はうつ病、パラノイアなど、第一層は知的障害や発達障害、パーソナリティ障害における心因反応や適応障害を挙げることができます。第二層と第三層はいずれもいわゆる内因性精神疾患ですが、第三層が普段の生活にはみられないような新たな質を持った体験(たとえば妄想知覚や思考伝播など)によって特徴づけられるのに対して、第二層では、こうした普段の生活体験から隔絶した体験の出現がないために、生活発展意味連続性の中断のみによって第一層との区別を行わねばならないという点が違っています。第二・三層と第四層の区分を、精神科医が特別に修練しなければならない診断として、「鑑別」診断という特異な表現を用いられているのは、ここが器質疾患を見落とさないという精神科医の臨床の第一歩となる非常に重要なポイントだからです。

 

※以下、古茶先生よりコメントをいただいております。

鑑別「診断」は第一層と第二・三層の間に引かれるもの、つまり「疾患的であるか、ないか」の鑑別を意味していて生活発展の意味連続性・了解可能性を吟味する作業です。「であるか、でないか」と二分するところは身体医学の診断と共通するものですが、それと同時に精神医学固有の方法が使われているので、かっこ付きの「診断」となります。

 

 

古茶先生の今回の講演は、以下のご著書に詳しくまとめてあります。ご参照ください。

 

兼本浩祐

 

 

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